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体で行わなければならない。それが儺堂戯では、例えばお金持ちが自分の家の息子が病気したからといって厄払いをするために行う。だから季節を問わない。当然、村の季節察りの方が儺堂戯より古いたろうと思います。儺堂戯では道士がたくさんの儀礼をやり、さいごにクライマックスとしてまたはアトラクションとして道士的面を被って寸劇をやるのですが、これらは結局漢族からの輸入品にすぎないというのが私の考えです。
どんな民族にも必ず祭りがあって春には神様を迎えなくてはいけませんし、もちろん邪気を払わなくてはいけませんし、追儺の部分があります。ただそれはどういう形態があるのか。仮面を被るのか、被らないけれど、それに類する動作が行われるのか、そこを追求しなくてはいけない。少数民族の固有のお祭りというのは季節察りでなければいけないし、男女の交際などが同時におこなわれるような古いスタイルの祭りでなければならない。今、少数民族の中で追儺といわれているのはシャーマンのもので、金持ちが自分の家の災いを払うためにやります。そういうのを中国の仮面劇のルーツだと考えにくい。
仮面を使った儀礼で残っているのは、湖南省、貴州省が一番多い。半分くらいミャオ族ですから、中国民族はそう多くはない。広西省も仮面劇が多いです。山東省から流れてきたと言われていますが、現在の担い手は壮族という少数民族です。

農村演劇の条件

シャーマンの擬態と扮装がなぜ娯楽的な演劇に発展しなかったかというと、演劇のルーツはそこに認められても、やはり特権階級が独占して民衆に開放したがらなかったため、秘事として見せないまま固まってしまい、外に出なかったからではないでしょうか。呪術がオープンにならなければ演劇にならない。お祭りをやっている連中が複数になってきて、増えてこないと娯楽になってきません。娯楽になってきて初めてやっている人も、見られているから美しくやろうと観客にアピールしようとするのでしょう。観客が成立しないことには演劇化しないです。少数民族の中にはどこにもシャーマンはいます。けれどもそれが演劇になるかどうかは別の問題です。演劇はすべての民族が持っているわけではないですから、演劇になるためにはそこに参与する人たちが増えていく、祭りが民主化する。祭祀が権力に独占されている状態から解放されなければなりません。能は抱えられているから形はもう決って発展しないでしょう。歌舞伎みたいに開放されてしまえば次々に変わってきます。一つの宗教儀礼は特権階級と結びついて保護されたら発展が止まってしまう。
少数民族は追儺を演劇に発展させる契機を持っていないと思います。生産力が増加し宗教に依存する気持が薄らいでいくと、村人は合理的な行動をとる。自然の将来を予見できると、必ずしも神様に頼らなくても解決できる部分が増えていく。そういうことがなければ、いつまでもマジックはマジックとして威力を持つのです。マジックが威力を持てば、マジックを使って人々を支配しようという支配者がいるわけですから、それは絶対に演劇にはなりません。娯楽にはならない。中国民族の場合、早くから仮面は消滅してしまいます。仮面というものを神様として崇める心理状態から解放されたんでしょうね。
演劇的空間になる条件として、商業が発達することも必要です。農村の生産のなかにあまりにも強く縛り付けられていると、いつまでたっても神様は怖いわけです。いつ凶作になるかわからないし、いつ鬼が養ってくるかもしれない。そういう状況では呪術儀礼はなかなか客観化できず、演劇に転化できないものではないか。しかし商業だけあって、まったく農村的なものがなければ、演劇はでてこないでしょう。元がないわけですから。古代的社会から中世的社会へ移ること。交易が発達し農業から余裕を持って離脱できるくらいの状況にならないと、怖い幽霊を鑑賞の対象にしようと思わないでしょうから。祭りの組織が少数の人に独占されるのではなく、複数の手に渡ることが条件だと思います。
…<金沢大学教授>

 

 

 

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